若 松 湯

ここに書かれているのは、当店の歴史を掲載したものです。
現在のお店の状況や取扱品目等とは
異なる場合があります
ので、あらかじめご承知おきください。
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創業 昭和23年に開業

立区で牧場をやっていたが、戦災にあって焼き出され、
松戸の親戚に2年間、寄寓してから現在地、市川市市川2−28−16に移り、
遠縁の人に貸していた祖母所有のお風呂屋を返してもらい、引き継いだ。
父は戦災で亡くなっており、私は小学生、母一人であり、
牧場をやるより楽だろうということで昭和初期から続いていた
お風呂屋さんをやることになったと聞いています。

当時、この地は旧市街であり、門構えの一戸建ちがある住宅街と
真間山弘法寺の門前町である大門通り商店街がにぎわっていた。
お風呂屋さんが数多く点在していたようである。
この近辺では、ふもと湯(真間小学校のすぐわき)、
日の出湯(京成本町バス停近く)、大正湯(京成の線路を越したところに)、
その左に第二大正湯、若松湯があった。
今は、若松湯と大正湯、ふもと湯の3軒が残っている。
家を中心として直線距離で300メートルすれすれに位置にあった。
冬の暖房も火鉢、炬燵の時代で人々は、
寝る前にお風呂屋さんにいって体を温めてから寝るのが習慣になっていた。
夏はまだ冷房はなく、扇風機で涼をとるくらいで、
寝る前に汗を流して寝るのが一般であった。
戦後復興期の昭和30年代後半まではお風呂屋さんの利用者が多かった。
当時は風呂付きの家はいくらもなかった。
変遷 
40年代に入り、戦後20年経って世の中が落ち着いてきて
住環境の整理が行われ、家を建てる時には風呂付きということになった。
お風呂屋さんも公衆浴場として、設備の充実、衛生上の問題が重要になった。
営業許可は保健所が所管していた。公衆浴場の最大の目的は、
モノのない時代に清潔で、健康に生活できるためには
お風呂の入ることが絶対必要であった。

昭和15年から25年まで続いた戦時物資統制令で入浴料金は、
県知事が最高料金を決めていた。料金が高くてお風呂に入りたい人が
入れないのでは困るという趣旨であった。

その代わり、競争の原理はできるだけ避けて、
千葉県は県条例で300メートル以上離さないと開業許可が下りなかった。
適正配置と料金規制で営業を安定させるのが行政の考えであった。
40年代までは、私の店の前に下宿があり、
商大生、歯科大生、東京へ通う大学生にそのころはいっぱいきていただいた。
当時は燃料の確保が大変だった。
燃料の主体は、東京深川木場の製材所から出るオガ屑で、
その他、落花生の殻などを燃やしたこともあった。
その後、40年代から50年代まで高度成長期に
材木の需要が増加するとともにオガ屑が増えて燃料としては
安定して確保できた。その後、社会構造が変り、オガ屑が
牧場のし尿の処理に使われるなど別の用途が生まれ、
また原木で輸入し製材していたものが次第に現地で製材するようになり、
木場での製材が減少し、したがってオガ屑も出なくなった。

その後、建築廃材、木製梱包材等を燃料として使用したこともあった。
その後、燃焼設備の進化、効率化が進み、
重油バーナーによる自動化、省力化が計られ、
現在ではほとんど重油で営業している。

飲み物 コーラ、ジンジャーエール、コーヒー系、お茶系、乳酸飲料など
昔は、お風呂に入って、あがってビンの牛乳を飲むというのが定番だった
栄養をとるという意識があった。
衛生上の問題があり、今はビンの牛乳は置いてない。      
また鉢物の植木、果物などを置いていたお風呂屋もあった。
これは一時的なものでした。

お客様に対して 
やはりサービスですね。心がけているのは挨拶です。
お客さんがきたら「いらっしゃい」、帰りは「ありがとうございました」
「お休みなさい」という言葉掛けが必要と考えている。

最近は挨拶をしない人が多くなった。黙って入ってきて黙って帰るより
ひとこと声かけて、こっちが話せば向こうも話すんだから、
親しみがでてくる。
そういうつながりをつくるのが大事にするのが必要と思います。
毎月26日はお風呂の日で、65歳以上無料で20年ほどやっている。
補助が14年度で廃止になる。定着してきているので
切るに切れないので苦慮している。
レイアウト 
親しみやすく、入りやすいようにと考えている。
最近はバリアフリーの問題が発生してくる。
洗い場のいすの高さを工夫した。お年寄りになると筋力がなくなり、
低くかけると立ち上がれないのでいろいろ高さを変えて実験して
3段階の高さのいすを用意している。また公衆浴場の浴槽の高さは、
規定がある。またいではいる際、捕まるところがないと
不安定になるのでそこも工夫しようと思っている。

極力古いものを残すのが方針で、
部分的には新しい設備に変えたところもある。
最近は実用的な面、レジャー的な要素も入ってきている

(スーパー銭湯など)。
健康、ヘルシー志向もあり、マッサージ、
軽いトレーニングの用具も入れている。

鉄アレイは子供の安全の面で問題があり、
プラスティック製のものに砂を入れて置いている。
お風呂にはいるとのどが渇くので飲み物にも
ヘルシーなものを置くようにしている。常連さんで、
同じ時間にきて、同じ飲み物を飲んでいる人が何人かいる。

居心地がいい場所ある。ロッカーもきまっているし、
同じ歩き方で同じ通路を通って座る場所も決まっている。
自分の席が空いてないとあくまで待っている。
商店街のイメージ 

昔の商店街はお店がつながっていた。
たとえば酒屋さんがあって、肉屋さんがあって、魚屋さんだあるって、
八百屋さんがあるというように生活必需のお店がつながっていた。
それがずうっとつながっているのが商店街だった。
しかし今は、点になってしまった。
まとまりがなくなり、バラバラになって、つながりがなくなってしまった。
もともと大門通りは、うなぎの寝床のようで
、しかも国道から真間山まで相当な距離がある。
それが点になってしまった。
万遍なくそろう必要があるのにまとまりができない。

環境問題 昔はお風呂屋の煙突は高かった。
この20メートル以上の高さにすんでいる人はいなかった。
今は煙突より高いマンションがあり、
上の方には煙が入ってしまう。苦情が出てきており、
公害問題に対処する必要が出てきている。
商大生に一言

みなさん、市川の学校に通っているということは、市川を知ってもらう必要がある。
市川に愛着を持って市川の人たちと協力して何かいいものができればよいと思う。
学校というかぎられたなかで学生同士は横のつながりを持っている。
いずれ卒業すれば遙かに広い社会に出る。
学校にいた時代の感触と社会にでてからの感触は大分ずれが出てくる。
卒業してしばらく現実に対面していくとわかってくる。
横だけでなく縦のつながりもある程度、必要である。
外の世界にも知識を得て、興味を示してやってみると今後、非常に役に立つと思う。
大いにやってもらいたい。

今後の抱負 人間、いつまで働いたらいいかなと思うんですよ。
まだ母親がいるので展望は模索中です。親子の関係はいつまでも切れない。
母親にはいつまでも元気でいてもらうとことは大事だと思っている。
母親のためにあまり環境を変えないようにしている。
最近は社会構造の変化が急速に進み、また個人個人も価値観が多様化する中では、
近い将来方向転換が必要になるかもしれないと思っている。

(2002年12月10日、市川公衆浴場組合、組合長 田中祐治さんにインタビュー)