新川屋

創業 大正8年9月創業。
父、斉木義男が奉公していた
深川の新川屋(おばの嫁ぎ先)からのれん分けをしていただいて、
真間山の石段下の石屋さんの手前でお店を開業した。
祖父、由蔵は、船頭をしたり、西練兵場の酒保のコックさんをしたり、
植木屋さんもやったり、お酒も扱う万屋でした。

祖父の家はこの真間の地で何百年も続いた農家で、
その三男に生まれ、財産わけもなく、
着の身着のままで浮谷家から青木家へ養子に行った。
当時は長子相続で、長子は兵役も免除されていた。

親が兵役にとられるのもかわいそうだと
近所で一人住まいだった青木さんのところに養子にいかせたわけである。
また祖母は、大正10年から昭和20年の終戦の年まで
市川連隊の兵隊さんを相手に真間山の上で茶店を開いていた。
昭和8年、真間小学校が創立するというので
市川からまっすぐ北に通る道ができ、
道路が整備されたのを機に真間4丁目の現在の地に移った。

創業当時は、ともかく人口は少なくて
真間地区だけでは商売にならなかった。
小僧さんが常時3人から4人いて八幡の駅前、
小岩のほうの飲食店などにリヤカーを引っ張って
お酒を届けたりしていた。
とにかく人家がなかったから商店というものがなかった。
うち一軒だけだったから綿のうち直しからお菓子、
炭巻きまで酒屋以外に何でもやっていました。
うちの前の十字路で小僧さんが炭やまきを切ったり、
私たちが子供の頃も道の真ん中でメンコしたりベイゴマをしたりした。
たまにこの奥の国分の農家の人が
市場に運ぶ野菜を積んだ大八車を牛に引かせて通るくらいものだった。
自動車も一日に一台通るか通らないかくらいだった。
それこそ一台でも通ろうものなら近所の子供たちが追っかけまわして、
「流線型の自動車きたぞ」と真間川の先まで追っかけたものです。
当時の車はまだ性能がよくなくてスピードが出なかった。
ともかく真間4丁目はのんびりしていて閑静なところでした。

このあたりは戦前から東京の日本橋、浅草橋、京橋の
商家、問屋さんの妾宅が多かった。
戦争中は、在郷軍人が指導して、モンペをはいた奥さん方を集めて
ヤッヤッと竹やりの訓練をやっていました。

大門通りの継橋の袂に兵隊さん相手のカフェがあった。
昭和3年の地図を見ると真間川から北の商人は
米屋とうちなど4,5軒しかなかった。
うちの祖母が18のとき、明治29年に寅さんで有名な
柴又の新宿(ニイジュク)からお嫁に来たとき、
真間1丁目から5丁目までたった20世帯位しかなかったという。
(今は、4,000世帯位あるでしょう。)
見渡す限り、畑、田んぼ、沼地、はすの田んぼが多かったと聞いています。

大きな事件 創業した大正8年(1919年)は、
第一次大戦直後で商品価格と株式が暴騰して、
日本経済は大変なバブル景気に突入した時期であった。
また真間5丁目に移った昭和8年は、
独身女性の描く理想の夫は銀行員に官吏といわれた時代であった。
変遷 苦難という苦難はなかった。
とにかく人家が少なく、山の上にも人家が少なく、
私が子供の時はリヤカーを引いて
今の国分高校の先まで配達に行っていました。
その時分は景気がよくてコンビニもなければ大型店もなかったので
夕方になるとうちの前は門前市をなすというほど
人が集まってはやったものです。
小僧さんが3、4人にお手伝いの女の人もいたが
それでも間に合わないくらい忙しく、
ずいぶん盛んだった。今は夢のようです。
戦時中の昭和15年から終戦後の物資統制令がなくなる
昭和25年までは品物がなく配給時代でした。
それこそ一週間に一回か二回、配給の日が決まっていて、
そのとき店を開けるだけで普段は全然、商人は用がなかった。
私は終戦のときは、旧制の中学校、市川学園に、姉は市内の女学校に通っていた。
たまたま父と3人とも日本パイプという軍需工場に勤めていて
父は自宅から、私たちは学校から通っていた。
売るものがなくて配給のときだけ店を開いていた。
卵もお酒もお味噌もそうでした。昭和25年以降ボツボツ品物が入ってきましたが、
まだまだお金は持っていても品物が少なかった。
私が築地に仕入れに行って、帰ってくるとその日のうちになくなってしまうほど
みなさん品物にうえていました。だから毎日、毎日、雨の日も雪の日も
朝4時起きして自転車で築地まで行った。
何を置いても夕方になるときれいに売れてしまった。
その後オートバイから自動車になった。
だからその時分はよかったですね。あの時代が来ればいいなと思う
品揃 平成元年までは、純然たる酒屋でした。
その後、雑貨はやめましたが、
食料品、菓子パン、宅急便、雑誌、写真、カメラ、タバコなど扱っています。
前のパン屋さんがやめたので、山崎パンの人が薦めるし、
お客さんも牛乳ないか、パンないかといわれるので置いてみようかとなった。
その頃は珍しいから結構、売れたが5年、10年たち、
コンビニの影響を受けてきた。酒、タバコ、食料品が重点商品です。
食料品は、瓶・缶詰、清涼飲料、パン、菓子が主です。
ほかに清涼飲料6台とタバコ2台の自販機を置いています。

お客さんとの関係 根っからの商人ですから、
土地の人たちとのふれあいを大事にしています。
小学生がぞろぞろ、ふざけながら通っていくとよその子だけど
危ないからもっと端のほう通りなさいと怒鳴ったりする。
近所の子供がかわいいから、怪我させたくないのです。
また古い店だから昔からのお得意さんがいる。
お年寄りが来て、家庭内の確執を聞いてあげる。
聞いてあげるだけで気が休まる。ほかのお客さんが帰るまで待っている。
帰るときは車が多くて危ないから、右見て左見て送ってあげる。
街の商人の役割だと思っている。
商店街のイメージ 手児奈橋通り会は、
うなぎの寝床で、京成の踏切からじゅんさい池の手前まで両側ですが、
あっちにポツリこっちにポツリとなってしまってまとまったことができない。
会長さんほか7,8店の人たちが一生懸命やっているが
中元、歳暮の売り出しでも参加する人が少ない。
自分の店だけで精一杯じゃないかと思います。
それではだめですけど、高齢化が進んでしまって、
後継者もいないので気力がなくなってきている。
何とかがんばりたいと思っています。
環境・交通問題 車が多すぎる。
二日に一回ぐらい事故がある。
譲り合わないでけんかしている。
排気ガスも多い。今は環境が悪くなってきている。

商大生に一言
うちの前をぞろぞろ通っていく。買ってくれるのは以前の30分の1くらいです。
大学の中にマクドナルドができてからパンが売れなくなった。
商店ですからできたらお店に入ってジュースでもパンでもお菓子でも買っていただきたい。
それと坂道ですから、単車でも自転車でも飛ばしてくる。
危ないですからスピードを落としてほしい。また横隊で歩かないようにしてもらいたいと思います。



(2003年5月15日 二代目 斉木 栄次郎さんにインタビュー)