鮨会館   林屋

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創業 明治7年、初代は、西山源次郎で、辺り一面の松林の中に茶店をつくった。それで屋号を林屋とつけた

創業 

明治7年、初代は、西山源次郎で、辺り一面の松林の中に茶店をつくった。
それで屋号を林屋とつけた。

場所は千葉街道(今の14号)沿いで、家のすぐ隣が三本松で有名な場所で、
その下を成田詣でに行く人たちが江戸(今の東京)から
江戸川を船でわたって千葉県に入りぞろぞろと通ってきて、
一服したいところがほしかった。
茶店をつくれば何とか生活できるのではないかと初代が考えたのが始まりで、
江戸川でとれたうなぎとか鯉、どじょうを売っていた。

川魚割烹「林屋」というのが最初で木枯らし紋次郎なんかにでてくる
小さな茶店だったと思います。
時代背景 江戸から明治に変わったばかりで、
松林がたくさんあってお店もぱらぱらとあっただけで、
その後、橋ができ、電車が走るようになり、
何度もの戦争をへて今日を迎えているわけで、
市川の歴史の変遷をずうっと見てきた一つの店だと思います。
苦難を乗り越えて 戦争がだんだん激しくなり、
川で魚を捕る人たちもつくる人たちも戦争に持っていかれるようになり、
しまいには出す魚がなくなり、雷魚を鯉と偽って
時代を乗り切ってきたということも聞いています。

男がいなくなってしまったのが歴史の中で一番大変だったんじゃないかと思います。
また借金もしましたし、よい時もありました。
事業は人なりといいますがやはり人がいないと商店でも会社でも続けていけない。
だから人との出会い、人を確保するということ、
ましてうちの商売は職人でないとできない、
それがいなくなってしまうとできないということです。

変遷 

戦後すぐ割烹旅館になった。
あの時分、進駐軍がたくさんいた。
アベックでくるのを泊める旅館をいち早くやったのが少しの間、当たった。
当時、私はまだ小さかったから非常に潔癖で、
これはちょっとまずいのではないかと感じていた。

浅草の浅草寺にすしや横町というのがある。
私の親父は市川生まれですがお袋は日本橋なので、
なんかそういった江戸っ子の血がいくらか流れている。
すしを食べに親父がよくつれていってくれました

すし屋で白衣を着た板前さんたちががんがんがんがん握っているわけですよ。
ああこれは日本の食文化の筆頭だなあと思って、
それで旅館の一部にすし部をつくった。
それが今日の寿司専門店の始まりです。昭和27年頃のことです。

時がたって旅館の方はやめた。

品揃え 

千葉県は三方、海に囲まれている。
非常にロケーションのよい県で、川とか海、山それから田圃、何でもあり、
しかも温暖な気候の中にある地形で、その食材をうまく利用すればよいと考えた。

特にうちは寿司屋だから、海の方から持ってきたものを大事に使っている。
江戸前寿司という名前だから、本当は違うのだけど、
東京から近いからまあいいやというわけで
千葉県産の魚を今でも極力使うようにしています。
こだわりは、ずっとメインでやっている千葉県産の地蛤、
それから浜金谷とか竹岡のあじ、
非常においしいのをメインにしてお寿司をつくっています。

ずいぶんお客様に浸透してきていて喜ばれています。
昔は浜に行けば蛤とかあじがもらえた。
今は流通機構が変わって、こっちでとれたものはいったん築地に流れて、
それから船橋とか千葉に流れてしまう。私たちはそこに行ってもらっているわけです。
しかし築地にいっても、船橋に行っても

なるべく房州の魚を極力買うように努力しています。
蛤とかアナゴとかを煮物という。
私は煮物のおいしい店に行ってごらんとよくいいます。
煮物のおいしい店は、みんな何食べてもおいしいと思います。
お客さんがあそこの煮物うまいよというとずいぶん方々食べに行きました。
うちが今自信を持ってお出しできるのは、
房州のあじ、千葉県の蛤、コハダなんかです。
コハダとかあじは単価も安いし、カロリーの難しい時代なのに血にもよいし、
こういう近海物をもっと食べてもらいたいと思います。
大トロなんかは高いから食べなくてよい。(笑)

あじとかコハダをどんどんおいしく食べて下さい


お客さんについて

明治7年から130年、代々伝わっている店ですから、
何代にわたってお贔屓にしてもらっているお客さんが多いですが、
若い人にうんときてもらいたい、女性にきてもらいたい。

女性が入る店というのは、何でもはやるんですよ。
私は昭和35年の千葉商科大学卒ですが、
当時は学食があまりなかった。

結構、学生さんの打ち上げコンパとかずいぶん、うちでやりました。
一気のみをやって二階から落っこちたりしたこともあり、
お巡りさんがきてしかられたこともありました。
そういう学生さんが一時、寿司屋を使った時代があったが、
今は学校内にいくつも食堂もあり、また寿司は高いというイメージもあって、
林屋に行くのだったら回転寿司に行っちゃうよという感じで、
大きな変革の時代に入っています。

だからうちあたりの商売も、ただ歴史があるとか
のれんが古いとかにあぐらをかいてないで
学生さんにもお嬢さん、奥様方にも喜んでいただけるような、
本当に気安く入れるようなお店に、
商大卒の倅と一緒に話し合いながらやっていきたいと思っています。

春の桜、秋の紅葉、真間にも年間を通していろんな行事があります。
お見えになるお客様には、私のわかる範囲で
真間のよさを説明させてもらっています。
ここのさくら行ってご覧なさいとか、
もっといいところがあるのですよと話して喜ばれている。

また年一回、手児奈祭の時は、感謝の気持ちで名代あじの握り寿司、
一人前1200円のものを600円で千人前程、早朝から大勢で握って、
3時頃には完売になります。

お店のつくり

扉をガラーとあけたときに本当の寿司屋さんだなあというイメージ、
本当の江戸前寿司のスタイルでやっています。

商店街のイメージ 松本清張の「点と線」という小説があるでしょう。
昔は、商店街は一つの線だった。
ああいう商店街、こういう商店街といくつかの線があった。
今は点、しかもぼん、ぼん、ぼんという感じの点になってしまっている。
その間の点とか線がなくなってしまっている。非常に寂しさはあります。
なんとかみなさんのお骨折りでお知恵を拝借して、線があり、
点もいっぱいあるような商店街にしていければありがたいと思っています。

それをするのには私たちも努力してみんなで話し合って、
どんどん若い人たちの意見を教えてもらいたいと思います。
有名な料理屋さんも、魚屋さんも商店がどんどん減っていくでしょう。
みんな努力してやっているのです。
しかし人件費が高いのと後継者がいない。
それが一番のネックになっていると思う。

環境問題 

環境問題は大切です。千葉県はよい環境でしょう。
PCB問題で危ない魚もある。

ハマチも養殖の魚で飽きられてきて、
なるべく自然の魚を提供しようということになってきている。
ところが魚は、今は獲る時代から育てる時代に入ってきている。
しかし天然の魚をいつまでも追いかけてみても
とても需要に追いついていけないので
それをうまく研究しながらうまくやっていきたいと思っています。

今後の展望 

今、寿司屋は二極化している。
回転寿司スタイルと私たちが修行して一生懸命やった江戸前寿司スタイルです。
おなかの空いた子供たちを連れて私たちのところへくれば
値段が高いから値段が張ってしまう。
回転寿司に行ってもいいと思います。

ただ何かことがあったときはどうか本物の寿司をバーンと食べてほしい。
それは自信をもっていえるし、それをやらなきゃ私たちは生きていけない。
本物の江戸前寿司を一つ一つ握りこんで
みんなに提供していきたいと思っています。

商大生へ一言
学生は頭が良くなったせいかおとなしい。学生さんがもっと商店街に気安く遊びに来てもらいたい。
昔、コンパなんかしていたから、
「親父さん、なんか今日はチラシ大盛り食べたいんだけどサービスしてね」
「残り物でいいから、これしか持ってないから」という会話が全然なくなっちゃって、
真面目なおぼっちゃま、お嬢ちゃまの学生さんばかりになってしまった。

少しぐらい脱線してもいいじゃないの、いい加減でもいいじゃないの、
青春は一回しかないのだよ。学生さんらしい学生さんがほしいなあと思います。
店の前をさっさ、さっさといかないで、「どうお」という感じのふれあいとか
気安い交流とかがほしいのです。若いノウハウを私たちにくださいよ。
そしたら私たちは勉強していい商店街にしていくよう、いい寿司を売るように
もっともっと努力していきたいと思います。

(2002年10月29日 4代目 西山栄一さんにインタビュー)