あ た り や

創業 私の父、篠原東吾が昭和9年9月15日に開業したと聞いております。
父は農家育ちで10人兄弟の男の末っ子であり、当時は長男が家業を継ぐので、
父の姉が嫁いでいた乾物屋に丁稚奉公にでて2,3年勤め、
問屋さんとの付き合いが出来てから独立したとのことです。

創業時の事件 スイトピーやフリージアなど西洋花に人気が出た。
ベーブルースらの米大リーグ選抜チームが来日し、18戦全勝だった。
前年の昭和8年に京成線上野成田間が開通している。 
軌道に乗るまで 市川の三本松に市川マーケット、私設市場の真間マーケットがあり、
魚屋、肉屋、八百屋、すし屋、お菓子屋さんなどいろいろな業種が入っており、
その乾物屋がつぶれたあとにお店を出したとのことです。
干物など一般乾物を扱う食料品屋として信用されるまでは厳しかったようです。

惣菜屋として再出発 本来は乾物屋でしたが戦争中、
物資統制令で豆、砂糖が配給になり、煮豆にすれば付加価値がついて
高く売れるのではないかと考えて始めたのが60年続き、
煮豆のあたりやとなったわけです。乾物屋をしては10年でした。

私は昭和39年ごろから学校に行きながら家業を手伝い、
かれこれ42,3年になります。私の高校の先輩は商大の加藤学長です。
学校に行くより後を継げといわれて継いだわけです。
私が継ぐ頃はお勤めするより商売を継ぐほうが経済的にはよかった時代です。
その間、商店会の役員をやり、会長も勤めました。
現在、市川真間駅にはたいらやというスーパーがありますが、
元々は西武百貨店市川店でその後西友に変わり、
外資と提携してウエル西武となって、そのあと全部退いて
いまのたいらやになっています。小売店と百貨店が共存共栄の時代であり、
特に昭和40年代は小売店が伸びている時代でした。

厳しいと感じたのは昭和51年にダイエーが出店してからで
昭和55年以降は特に厳しくなったと思います。
さらにスーパーの影響の上にコンビニの影響が加わり
ますます厳しくなりました。また核家族になって若い人は高い安いも気にするけど、
必要なものが必要なときにあればよいという考えで
それが浸透したことも大きく影響しています。
昭和58年に景気が良かったし、資金的にも余裕があったので
今のお店のかたちに変えました。
それ以降はお店に手をつけておりません。

商品の変化については、塩乾物がほとんどだめになっていったので、
戦争中と同じで製品にすれば付加価値が付くと家内と一緒に惣菜をずいぶん作りました。

平成2、3年から日替わり惣菜を10年ほど続けました。
 月曜日 高野豆腐
 火曜日 卯の花
 水曜日 ひじき
 木曜日 白あえ
 金曜日 卯の花
休日は、日曜日と祭日でした。休日も最初は月1回、給料日の前日(24日)、
月2回になり、現在の毎週1日に変わりました。
この日替わり惣菜もコンビニができ、惣菜の専門店ができて顧客が減っていって、
私の役割も済んだかとやめました。親の代のお客さんは、
娘さんまではきてくれましたが、お嫁さんの代になると離れていきました。

品揃え 黒豆、うずら豆の煮豆がメインです。
食料品のあたりやから父の代10数年は煮豆のあたりやでした。
組合が作れるくらいでしたから10数件の煮豆屋がありました。
平成になってから保険所の許可が煮豆から惣菜に変わり、そ
れで総采をやってもよいと考えて日替わり総采をやりました。
総采をやめてから煮豆のあたりやと書くようになりました。

次に築地からとっている干物など塩乾物、三つ目が漬物です。
それと新鮮地卵、産直のこだわりの卵を置いています。
成田の布佐の卵問屋から仕入れています。現在は週2箱ですが、
盛時は週10箱売れて、問屋まで取りにいったこともありました。
野菜はトマト、きゅうり、ナス(路地ものは夏場のみ)を置いています。
特にトマトが私のこだわりのトマトです。ハウスのときは静岡とか愛知、
路地の場合は山形の村山のトマトを売るのです。トマトは評判がよいのです。
消費者のニーズとしてのある野菜の3品はそれなりのフアンの方がおられます。
また暮れのおせち料理を自家製でやっています。
今は、栗きんとん、黒豆、お多福、田作り(築地入船)、
かまぼこ(小田原直送)など一通り揃うようにやっています。
かまぼこは皆さんが良く知っている鈴広は扱いたくないから、
地元でよいものを作っているところはないかと昭和50年代に

小田原に行って中小のところに何軒か飛び込んで
自家製のおせち料理をやっているものだといって、
うずら豆と黒豆を持っていってこの商品のための
かまぼこがほしいとお願いし、伊勢兼と取引するようになり、
20年以上も付き合っています。これを目当てに東京都内、
我孫子、成田、船橋など京成沿線からお客さんが着ていただけます。
昨年は、口コミで蘇我からこられた人もいました。暮れだけは
よい商売をさせてもらっています。
平月と5倍は違う売上を上げています。  

レイアウト 昭和58年の改装のとき、乾豆ものは控えめにして、
加工食品にポイントを移しました。前からあった干物類の平ケースを残し、
煮豆の平ケースを新しくし、漬物類の縦ケースも新調しました。
それ以来変えておりません。


お客様への対応 口に入る商品だから衛生面には
特にこだわって注意しています。昔からのなじみ客と
なじみ客の紹介で来る人が多く飛び込みは余りありません。
現状維持が目一杯です。
私もあと5年、10年、20年とやれるわけではないのですが、
親の代から来てくれている人もあるし、
あたり屋さんがやめられると困るとおっしゃるので
がんばっています。 
商店街のイメージ ここ(真間銀座会)は、
駅前なのでオーナーが家賃なしで商売をしていて
跡継ぎがいないお店がほとんどです。
毎年、赤字が続けば、やめて貸店舗にするというパターンになっています。
したがってこれからは段々とテナントさんが増えるので
商店会の活動が難しくなるだろうし、
商店会の活動が減少していくと思います。

環境問題 口に入れる商品である以上、
取り組まなければならないと思っています。
市のほうから分別は業者を入れて処理をやってほしいと
商店会に来ています。商売に一生懸命の人は
これらの取り組みを熱心にやっています。
中華料理のお店は油を扱うから業者を入れてやっておられます。


学生に一言 
商大生に一言 学生の通る道と違うのでよくわからないが、意欲のある学生さんは一生懸命やってくれています。
手児奈さんの日曜市など手がないから学生さんを当てにしていますし、
産学協同でやらざるをえないと思います。 

(2005年6月5日 二代店主 篠原武義さんにインタビュー)


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